意識進化とは何か
非二元
意識進化とは、ここでは、いわゆる悟りのことであるとしておきましょう。それでは、悟りとは何でしょうか。悟りとは「非二元」を頭ではなく、直感的、体感的、体験的に知覚・理解すること、であるということだと私は考えています。(ちなみに私は未だ悟ってはおりません、煩悩多き凡人です、はい(汗))
非二元とは、不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)のこと、と言っていいかと思います。 不二一元論 をWikipediaから引用します。
不二一元論(ふにいちげんろん、サンスクリット語: अद्वैत वेदान्त、Advaita Vedānta、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、Kevalādvaita)とは、インド哲学・ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダンタ学派の学説・哲学的立場である。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となった[1]。不二一元論は、ウパニシャッドの梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説である。
また、非二元とは仏教的に言うと般若心経の世界です。般若心経は以下のように始まります。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、
照見五蘊皆空、度一切苦厄。
舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。・・・
「空」とは、あらゆるものの根源、そこからすべてが生ずるもの。
「色」とは、「空」から生じた具体的なもの、この世界。
そして、究極的には「空」も「色」も同じである、と言っています。
真我と自我
19世紀後半の南インドにラマナ・マハルシという聖者がいました。ラマナ・マハルシを知る人であれば、ラマナ・マハルシが悟った人であったということに異論はないでしょう。
「ラマナ・マハルシとの対話」を読むと真我と自我について多く語られています。真我と自我について私なりに定義すると次のようになると思います。
真我:般若心経の「空」、梵我一如の「梵」
自我:五感(肉体)、思考、感情の総体。
真我と自我について、ラマナが語っていることで印象に残ることばを挙げてみます。(必ずしも語っている言葉そのままではありません)
- 自我とは真我の大海に生じた泡のようなもの、泡は消えて海に戻る
- ただ真我だけが存在する
- 真我は一つ、つまり私達のそれぞれの自我の背後には、唯一の真我だけがある
- 真我は無数の自我を、また自我を通してこの世界を観察・観賞・目撃している
- 真我以外は幻想であり、世界はホログラムのようなものまたは真我というスクリーン上に投影された映像のようなもの
悟りとは、上記のことがらを直感的、体感的、体験的に知覚・理解すること、と言えるのではないかと考えます。
では、どうして人工知能の研究が人類の意識進化・悟りを促すのでしょうか。
私は誰か?
ラマナ・マハルシは、悟りへ至る最短の道は自己探求であると言っています。自己探求とは「私は誰か?」という問いを徹底的に追求していくことです。
人工知能の研究は、NHKの番組ではありませんが「人間とはなんだ?」という問いを追求せざるを得ません。それはつまりラマナ・マハルシの勧める自己探求をしていることになります。したがって、人工知能研究は必然的に人類の意識進化(悟り)を促すことになります。
とはいえ人工知能研究者の立場としては、このような非二元や悟りというものをあえて避けて通りながら、あくまでも科学的・工学的なパラダイムの中で研究するのが正統ということになるのでしょう。しかしながら量子力学を確立した物理学者たちが少なからず東洋思想の世界に行き着いたように、人工知能研究もまた同じような道を行くのではないでしょうか。 前野隆司さんや三宅陽一郎さんのような研究者は、その嚆矢と言っていいのかもしれません。